マーク・コリン監督作品『ショック・ドゥ・フューチャー』を観ました。インタヴューによると、初監督となる彼が所属するバンド名は、音楽のニューウェイヴをフランス語に訳してヌーヴェル・ヴァーグとしたそうです(映画のムーブメントに魅了されてのことではないときっぱり言っています)。
1978年、パリを舞台とするこの映画の主人公はミュージシャンのアナ。40年以上前に電子楽器を使って、フランスの音楽業界で活躍していた女性です。CM曲を依頼されたものの、締め切り間際にもかかわらず、なかなか作業が進みません。そんな彼女に起こる、ある一日の出来事が描かれています。長文となりますが、ご容赦ください。
いまではポップ・ミュージックの主流といっても過言ではないエレクトロニック・ミュージックですが(フランスでは、すでに解散したダフト・パンク、あるいはジャスティスなどが筆頭に挙げられます)、そうなるのはもっと後の時代になってから。
しかし、日頃からポスト・パンク/ニューウェイヴを聴いているためか、わたしにとって懐古的なところはほとんどなく(古い価値観とそれに抗う女性像が描かれてはいるものの)、むしろ現代的な作品であるとさえ感じたのは、たんなる思い込みでしょうか。その理由について音楽的な観点から考えてみたいと思います。
それゆえ、電子音楽の黎明期から様々な女性音楽家が活躍していたことがこの映画のテーマとなっていること、男性中心であった70年代の音楽業界でアナが奮闘することについては、ここで軽く触れるにとどめます(前者については、数多くのアーティストの名前がエンディングで流れますが、数秒しか映らないので、すべては確認できていません。例えば、テルミン奏者のクララ・ロックモア、1950年代に『禁断の惑星』の音楽を夫婦でつくったルイス&べべ・バロン、『時計じかけのオレンジ』や『スイッチト・オン・バッハ』等が代表的な作品で、男性のワルター・カーロスから女性へと性転換したウェンディ・カーロスなど)。
それは現代に受け入れられる妥当なテーマであり、映画に仕立てるためのアイディアとして、一応の評価はできます。けれどわたしは、そこにこの作品の核心を見てはいません。
オープニングでアナが止めた目覚ましのデジタル表示は、そのとき9:09を指していました。この数字から、日本の楽器メーカー Roland のリズムマシン TR-909 へのオマージュを読み取ることは容易です。大袈裟に言うと、この作品はいまからポップ・ミュージックの歴史における電子楽器、エレクトロニック・ミュージックの重要性を明らかにするよ、という監督の宣言なのだと思います。
以下は、そのことについての検証作業です。
ラジオから流れるポップスに悪態をつき、アナは床に散乱している大量のカセットテープの音源からセローン「スーパーネイチャー」(1977)を選びます。
セローンの楽曲は、ジョルジオ・モロダーがプロデュースした「アイ・フィール・ラブ」(1977)の影響を受けたもので、エレクトロニック・ミュージックがそれまでのニュー・エイジ的なものから、ビートを強調したダンス・ミュージックへと明らかに変質していったことを示す好例の楽曲です。
またアナの部屋には、パティ・スミス、ブライアン・イーノ、テリー・ライリー、ジョルジオ・モロダーなどのレコードが置いてあるのですが、そのことはこの時代のある種のリスナー(この部屋の本当の主は不在の友人であり、機材含めてアナは借りている)が、パンク、ニューウェイヴ、現代音楽などを同時に聴いていたという事実確認であり、そのことによってエレクトロニック・ミュージックのコンテクスト(その音楽の背景にある様々な文脈)がより明確に提示されることになります。
一日の終わりに、フランスに実在するバンド、コリーヌのスタジオにアナが訪れるというちょっと意外な設定も、ディスコ・ミュージック、エレクトロニック・ミュージックの流れが、そうしたコンテクストを経由しつつ現代へつながっていることを考えると、至極当然のことです。
OBERHEIM 社のシンセサイザーをコリーヌが演奏で使用していることについて、男友達にその楽器がレアであることを教えているアナの発言は、78年と現在が交錯して判断し難いのですが、インタフェースを含めた音色をそう言っているような気がします。
アナの部屋の片隅には、おそらく1990年代以降のものと思われる 、MOOG 社が量産したテルミンがあります。そうだとするなら、時代考証を厳密にするよりも、その演奏形態と音色を想起したいがために、敢えてエレクトロニック・ミュージックの過去/未来を象徴する楽器としてテルミンが置かれていたのではないかと推測します(あるいは撮影で借りた収集家の部屋にもとからあって、そのまま残した結果というのが実際のところかもしれません)。
ここで全体を見通しておくと、1曲目がセローンで最後がコリーヌ(精確には、古いレコードから流れる歌声とエンディング曲はここに含んでいません)。その間、電子楽器は音楽制作に必要不可欠なものになりました。エレクトロニック・ミュージックの普遍性とその一般化について、監督はストーリーよりも、むしろ音楽(楽器・操作性・音色)に託して、観客へ重要なメッセージを送っているのではないかとさえ疑ってしまいます。そしてこれから見てゆくレコードコレクターの選曲には、当時のアンダーグラウンド・シーンで活躍したミュージシャンの楽曲が多数取り上げられているのですが、そうした配置にも同様の意図が感じられます。
大物音楽プロデューサーに新曲を聴かせるため、部屋でパーティーを開催することを決めたアナ。そこに呼ばれた友人コレクターとアナとの会話は注目に値します(実際のパーティーでは DEVO なども選曲されていて、それはそれですごくよかったです)。
友人コレクターが最初にかけるレコードは、過激なパフォーマンス集団としても知られている TG の「ユナイテッド」(リーダーのジェネシス・P・オリッジが亡くなったときは、このブログでも追悼の動画[穏当なもの]をさりげなく貼り付けました)。アナの感想は、スネアの音をシンセで表現しているのが凄いというもの。
続くレコードは、アヴァン・ポップあるいはプログレッシブ・ロックのアクサク・マブール「Saure Gurke」。アナはリズムに反応を示します。寡聞にもわたしは知らなかったのですが、とても魅力的な作品なのでここで紹介します(映画の予告編でも使用されていました)。
その後のスーサイド「フランキー・ティアドロップ」で二人の意見が対立するのも興味深い場面です。ヴォーカルと音楽的なアプローチが好きではないというアナに対して、どれも非常に重要なレコードだと友人コレクターは主張します。一方で先入観にとらわれることなく音楽を判断するアナ。他方、当時のフランスでは入手困難な作品を、世界各地のルートを駆使し、様々な情報を得て評価する筋金入りのリスナー。どちらの意見も頷けます。
4曲目。そこにアナが新たな可能性を見出す音源は、友人コレクターが言うには、ロンドンに住む知人がラジオ番組からエアチェックしたものであり、後に世界的ヒットを飛ばし、エレクトリック・アバの異名を持つことになるヒューマン・リーグの前身、ザ・フューチャー。
結局のところ、年上のレコード・コレクターは歴史的な視点さえ持っており、音楽シーンを俯瞰的に捉えることが可能な、1978年とエレクトロニック・ミュージックの未来を繋ぐ優れたリスナーであると考えられます。こうしたことはビートルズもまた然り。ポップ・ミュージックの世界では度々起きていることであり、優れたミュージシャン = 優れたリスナー(この場合はアナと彼女の協力者)という図式が成り立ちます(夜遅く、コリーヌのスタジオから部屋に帰ってきたアナ。何人かはまだ部屋に残っていて、そのときコレクターが、アナをジュリー・ロンドンの歌声で迎えたのも印象的でした)。
音楽の未来を切り拓いた70年代後半のエレクトロニック・ミュージックは、その時代のテクノロジーによる制約を受けつつも、先鋭化していったという側面があることを見てきました。上述したアーティストによる音楽が古びない理由とは、そうした制約を乗り越えるための方法を模索・発見する試みだったからであり、結果として録音物にその痕跡が(すべてではないにせよ)刻まれているからなのです。それを正当に評価できるのが音楽的な環境に恵まれた現代リスナーの持っている特権であるということに、わたしは確信を持っています。だからこそ、マーク・コリンと同様、自分のルーツとしてのニューウェイヴ/エレクトロニック・ミュージックを、これまでも、そしてまたこれからも聴き続けるのだと思います。