カレル・チャペック『ロボット RUR』。
訳者解説によると、1920年に『ロボット』がプラハの書店の店頭に並んでから、昨年2020年でちょうど100年。その当時、わずか2000部の初版であったにもかかわらず、1924(大正13)年には、東京の築地小劇場で「人造人間」の題目として上演されたというくらい、世界中で人気を博したそうです。
戯曲形式でストーリーがとても面白いということもあり、ほんの数時間で読み終えることができます。基本的には「ロボット」=labor(労働)=奴隷が人間に反旗を翻すという話なのですが、そこは100年にわたって読みつがれている作品。極めて現代的な論点をいくつも見出すことができます。むしろ、人間とロボットの関係を対立的な構図として捉えないほうがよいかもしれません。
興味深いことに、チャペックのつくりだした「ロボット」は、歯車や機械で構成されていないと言うのです。付録のなかでチャペックは「ロボット」の構成要素について「生きている細胞とは組成が異なる有機物質」であると説明しています。
またチャペックは「ロボット」の着想を得たときのことについて、次のように書いています。「路面電車は満員で不快感をもよおすほどだった。近代の条件というものにより、人々が、普通の生活の快適さに気づけなくなっていることに私は驚いた。路面電車の中だけではなくステップのところまで、果物どころかまるで機械のようにすし詰めになっていた。私は、個々人としてではなく、機械として、人間を考えはじめるようになり、その道中、働く能力はあるが、考える能力はない人間を示す表現にはどういうものがあるだろうかと考えはじめた」。
このことを表現するための言葉が、画家の兄ヨゼフによって生み出された「ロボット」だったのです。
だとするなら、もしかすると現代の「ロボット」とは、急速なデジタル化によってどこにいても一日の大半をスクリーンとともに過ごしている人間のことなのかもしれません。
スウェーデンのある精神科医は、デジタル技術(とりわけSNS )によってわたしたちの脳は「ハッキング」されていると警告しています。それはとても恐ろしく、残念なことです⚠︎
チャペックが予見した「働く能力はあるが、考える能力はない人間」としての「ロボット」は、このようなかたちで100年後に具現化されたのでしょうか。自分はどうだろう、考えこんでしまいます。